祝詞とお経

20130610

月曜日の朝はやっぱり祝詞だよね。ってのは何かと言いますと、僕の通勤路の途中にどうやら宗教団体があるようで、何の変哲も無い建物からおばさま方が集団で祝詞をあげる声が聞こえてくるのです。月曜日オンリー。毎週ソレを耳にしながら事務所に向かって歩いているわけですが、歩きながら、今日は唐突に「果たして祝詞って何だろうな」なんてことが頭に浮かびました。

Wikipediaによれば祝詞ってのは「神道において神徳を称え、崇敬の意を表する内容を神に奏上しもって加護や利益を得んとする文章。」ってことで、それに対して何ら疑問も不満も無いのですが、僕が言いたいのはそういうことではなく、なんつーか、意味あんのかな?ってことです。いや違う、ちょっとニュアンスが違って、Wikipediaの言うところの加護や利益を得んとするようなパワーが祝詞そのものに備わっていて、祝詞をあげれば誰でもそれが得られんのか?ってことです。そう、それそれ。
40秒くらい考えたのですが、結論から言えば祝詞をあげる人によるんだろうなぁってことです。心の込め方によるのかもしれないし、祝詞を「音」ととらえてその音色が美しければ祝詞が力を持って神様に届くんじゃなかろうかと思った次第。うむ、だから人による。

んで思ったのが、そうなると仏教、すなわちお経の場合はどうなのかなぁということですが、基本的には祝詞と同じで心と音色がキーワードなんだろうなぁとは思うものの、例えば僕が死んだとして皆が僕のためにお経をあげてくれたとしても、そもそもお経の意味が分からないからあんまり供養のバックアップにはならないんじゃないかなぁと思うのです。もちろん僕のために皆がわざわざ黒い服着て集まってくれて、心と手のひらを合わせて供養してくれようとしているその心意気には感謝感激の平身低頭なのですが、なにせお経そのものの意味が分からんのでまずはそこをどうにかして欲しいなぁと、彼岸から見ている僕は思うと思うんだよね。「色即是空、空即是色」言われても、なんか「僕にどうしろと?むしろ僕の好きだったアリスやらビージースでも合唱してくれた方が…」って感じ。いや、有難いんですよ、有難いんだけども…ねぇ。
まぁ、死んでみないと分からんけどね。

20130607

最近話題になっている「のどごし<生>カンフースター編」の映像を見ました。詳しく書いてしまうとネタバレになってしまうので書きませんが、見ていて自然と涙が浮かびました。「想い」かな、一言で言うとそんなもので溢れているように思います。いろんな方向に向いた想いが詰まっている、そう感じました。

僕はいままでどんな夢を持って生きて来たんだっけ。
幼稚園の頃はトラック野郎になりたかったです。僕も一番星を運転してみたかった。小学生の頃は夢という夢は特に持っていなかったなぁ。文集には「銀行員になりたい」と書いていたけれど、それは父親の職業だったから。中学生以降は…覚えていないなぁ。夢と言うよりは「すげぇなぁ」と思うことが多くなったのは覚えています。『MUSIC LIFE』『コンバット・マガジン』『ムー(立ち読み)』が当時の愛読書だったので、「外国人はみんなドラッグってのをやってんだなぁ」「ケンって人が出てるビアンキカップって凄いなぁ」「宇宙人には遭遇したくない、絶対!」みたいな。夢というよりも新鮮な驚きを得ていたのが中学生の頃だったと思います。

実は今でも「夢」ってものはよく分からないです。パッと思いつかない。なのできっと自分はつまらん人間なんだろうなぁと思っていたこともあるのですが、ここ最近は少し考え方が変わりました。
変な捉え方をされると困るのですが、夢ってけっこう叶ってしまうものだと思えるようになったのです。もちろんその夢のデカさによりますが、僕は世界征服や人類愛を夢見ているわけでは無いので、なんて言うか、けっこう満足なのです。願えば叶う。強いて言えば世界レベルのバレーボールをコートの中で体験してみたいという想いはありますけど、きっとそれもどこかで叶ってしまうものと思っています。

「想い」と「信じること」って大事だよね。たぶん最強。