入院13~14日目

主治医の先生から「このまま次のクールまで続けて入院しますか?」と言われたけれど、「少し家に帰ります。」と答えた。多少の郵便物は溜まっているし、仕事もあるし、家族もいるから。退院日は明日あたりには分かるんだろうけど、おそらくは水曜日あたりじゃないかな。水曜日に退院して、また月曜日か火曜日に入院するんだと思う。

Facebookを眺めていると、みんなおいしそうなものを食べたりどこかへでかけたりと楽しそうでいいと思う。羨ましいとか腹立つとかそういう気持ちは微塵も起きない。なんで唐突にこんなことを書いたのかというと、さっき難病と闘う人物へのインタビュー記事を読んで、そこにはいろいろと他人が羨ましいと思うみたいなことが書かれていたから。僕はどう思うかなと意識を向けたところ、そういう感情は皆無だなということが確認できた。僕と僕以外の人とは違うものだからな。周りに幸せそうな人がいるのであれば、なんだかこっちにもおすそ分けがもらえそうでむしろ有難いわ。
書いてて思いだしたのは、余命を告げられた人物に悩み相談をするみたいな企画のこと。僕はそれを一切読んだことは無いし、いいも悪いも無いんだけど、余命が近づいたからといって人は達観するかというとそれは無いよなとは思う。何も変わらないよ。もっと言うと、死んでもスーパーマンになれるわけでもない。壁は通り抜けられるようになるだろうけど、生前理解できなかったものが理解できるようになるわけでは無い。人間、コツコツやるしか無いんだよ。コツコツ頑張って積み重ねて行くしか無いの。だから余命が近い人への人生相談は、単に余命が近いというだけであって、そこに一般とは異なる変わった回答を求めているのであれば、それも酷な話なんじゃないのかなとは思う。知らんけど。
僕が社会人2年生の頃に「普通の人はここからここまでの道をこうやって進むでしょ?でも僕らは違うの。僕らはそれよりも何百倍も速いこっち側の道を進むんだよ。」と丁寧に教えてくれた先輩がいたけれど、それからすぐに会社を解雇になった。マルチ商法をやっていたからね。むしろ生きているうちに尻拭いができて良かったんじゃないかな。

今日は少し熱があるみたいだけど、明日の朝には収まってるかな。そうであればいいなと思う。

入院24日目

昨晩は思っていたよりは眠ることができた。毎日少なくとも1時間に1回は起きてるんだけど、昨日は2〜3時間くらい連続で眠れた時間帯もあった。今回の入院では個室では無く相部屋を利用しているということもあり、なかなかリラックスすることはできない。それを見越して耳栓も持ってきてはいるものの、何だろうね、耳栓を入れる角度なのかそれとも気圧の関係なのか、長時間つけていると少し痛くなってくる。なのでつけていても夜中に取っちゃうこともしばしば。で、ベッドが合わないということも相まって、また眠れなくなるというね、そんな毎日。というか、違う違う、こんなことを言いたかったんじゃなくて、昨晩は思っていたよりも眠ることができたし、起床時間の6時に起きて食堂に行ったら今日も朝日が眩しくて、なんだかちょっと力をもらえたような気がしたよということが言いたかった。朝日に向かって唱える「トホカミエミタメ…」という真言があるの。太陽と一体化するというか朝日のエネルギーを口から吸収するみたいなものなんだけど、うまいこと朝日が見られた時にはそれを唱えてる。それを書くならこれも書くけど、まだ手術したてで身体が辛かった時、特にICUに入ってた時かな、いつも通りに身体に意識があると辛いので、瞑想の要領で意識を丹田まで降ろしてそこに集中し続けることで、呼吸を落ちつけることもできたし、身体の痛みやら辛さもゼロにすることができた。意識を肉体から外すってことなのかな。知らんけど。通常瞑想は身体を起こした状態で行うもので、ベッドに寝たままだと無理かな?と思ったんだけど、できるもんだね。「瞑想やっててよかったわ〜。」と思ったよ。瞑想さまさま。で、意識を肉体から外すと言えばさ、やっぱり夢の話をしないとならないね。夢の中だとさ、自由なんだよ、身体が。前にもちょろっと書いたけど、夢の中だと不自由なく喋ることができるし、当然身体も痛くないの。夢から覚めて初めて「不自由だったんだわ。」って思い出すというね。霊界大好きな人であればこの手の話は知っていると思うけど、夢を見ている間というか寝ている間って、その人の魂は肉体から離れてるんだよね。言い方を変えると、人間って寝ている間は幽体離脱をしているってことなんだな。だから今回の僕のように、本当は痛みもあるし言葉も話せないのに、夢の中ではそれができるという。夢から覚めた瞬間に全てが現実に戻るんだな。で、普通の人は寝ている間、つまりは幽体離脱している間の意識って自発的に持つことはできないんだよね。ただ一部の人間はそれをすることができて、それができるのが所謂霊能者なんだな。と僕は勝手に思っているの。睡眠と瞑想と脳波ってのは密接に関わり合ってるからさ、その辺り、突き詰めてみたいと思ってる。

というね、入院生活とは関係の無いことばかり書いたけど、最近はもう「話す訓練と食べる訓練をするために入院している」みたいなもんで治療も大してしていないので、まぁこれでもいいと思う。
ってことで今日は日曜日。診察も無いし面会も無いので暇でしか無い。コロナの影響で面会はできないんだけど、実は僕が入院棟の1階まで降りればそこで誰にでも会うことはできるんだなこれが。ま、コロナが怖いだろうけどね(笑)。

お盆だったわ

車で久しぶりの道を走りながら「そういえばお盆だったわ。」と思い出した。今ってお盆なんだね。
どうして道を走りながら思い出したのかというと、19歳のときだったかな、その道を走ってたときに耳の周りで複数の何らかが会話をするような声が聞こえてな、声というか声にならない声なんだけど、その頃の僕は霊的なものへの反応というか霊的なものからの働きかけと言った方が正しいのかもしれないけど、とにかくはそういうことがたびたび起きててね、そのときも「あ、ヤバいものが寄ってきたかも」と思えたの。で、そこから100mくらい走ったら、道端に「ペット霊園入口」的な看板が見えてな、「あ、これか。」と思ったのだ。人間だけじゃなくてペットも寄ってくんのかよと。そんなことがね、19歳あたりから数年にわたって起こるようになったのよ。特に強かったのがお盆の時期だったからさ、変なものが頻繁に寄ってくることで「あ、お盆か。」と気づくほどだった。
で、話を戻すと、どうして久しぶりの道を走ったことで「お盆だったわ。」と思い出したのかというと、その「ペット霊園入口」的な看板がある道を走ったから。その近辺で変なものを感じたということでは無く、その看板を見たことで「そういえばあの時はお盆だったな。」と思い出し、「そうか、今もお盆か。」とつながったのだ。

あれからもう30年も経つのか。30年も経つというか、もう20代の後半あたりには無くなってたんだけど、ああいう「霊的なものからの働きかけ」って無くなったなーと。まぁあるにはあるんだけど、アプローチの仕方が変わったというか、アプローチしてくるものの種類が変わったというか。有難いことに、怖い思いをすることはほとんど無くなったかな。怖い思いをするのでは無く、予知と言うと大げさだけど、「ああ、これってこうなるかも。」ということが事前に分かるようになった。と言うかなんつーか、全般的に敏感になったかな、ここのところ。まぁいいや。

っつーことで、実家ではナスとキュウリに脚をつけたのを家の入口付近に置いておくんだけど、今の住まい、つまりは東京なんだけど、東京では作り方もちょっと違うようで、見ているだけで楽しいな、という無難なことを書きつつ、今日の日記をしめましょう。皆さま、よい一日を。