霊視と易経

ここ3日間ほど、ヒマな時間を用いて易経に関する本を検索している。さわりだけでも勉強してみようかと思い、適した本を探している。サイトによってはその本の中身を少しだけ読むことができたり、その本に関するカスタマーレビューが掲載されていたりするので目を通しているのだけれど、それを読む限り、易経とはかつて僕がやっていた霊視と同じなんだなと思えた。ざっくり言いすぎてしまったけれど、どう思ったのかと言うと、使う道具や手段はそれぞれだけれど、自分の感覚と言うか経験というか、そんなものがモノを言う世界なんだなと思えたということ。ひとくちに占い(と言ってしまうけれど)と言ってもいろいろな手段があるけれど、水晶を使おうがサイコロを使おうが、結局のところはどれも同じなんだろうなと。道具や手段うんぬんでは無く「誰に見てもらったか」という部分がキモなんだろうと思えた。
僕の場合、まずは相手の頭のあたりを見ることから始めることが多かった。用事がある人が現れるのであればだいたい頭の周りだったし、誰も来ないとしても、ご本人の思考なのか何なのか、そんなものが現れるのも頭の周りだった。「現れる」とは言っているけれど、それらは目に見えるわけでは無くて、何と言うか、感覚で分かるもの。そこにいるのが誰で、どんなことを伝えに来たのかはだいたいわかる。あとは知りたいことを紙に書いてもらったり、自分以外のことを知りたいときにはその人の名前と生年月日を紙に書いてもらうか、名刺を出してもらっていた。それを両手で挟むと知りたいことやその人の情報が手のひらを通じて感覚として僕の中に入ってきた。頭のあたりを見ているときも両手で紙を挟んでいるときも一緒だけど、どちらも答えはストレートにはやってこない。何らかのシンボルが頭に浮かんだり、いくつかのステップをふまなければわからないようなものしか頭には浮かばない。なのでシンボルやら何やらが頭に浮かんだときに、それが何を現しているのかを解釈しないとならない。その解釈を間違えてしまうと、相手にも間違えたことを伝えてしまうことになる。このあたりが前述した「自分の感覚」や「経験」による部分であって、それは僕の霊視も易経も同じものなんだなと思えて、なんだか少し安心した。答えがストレートにやってこないことをなぜなのだろうと、これって僕だけなのかなぁと思っていたけれど、それもそんなものなんだなと思えたし。
なのでまぁ、所謂「占い」をしている人は、どこかの情報にアクセスをしてそれを取得してきていることに代わりは無く、単にそのための手段が違うだけなのだろうと思えた。どこにアクセスしてるのかということと、その間に何が介在しているのかって部分がキモだとは思うけどね。