Posts in Category: おかしな話

ヤベー場所

昨日、たまたまお会いした方に連れて行っていただいた場所がとても凄かった。平たく言えばカフェなんだけど、出てくるものは全て美味しくて、窓の外を見れば見たことも無いような綺麗な色をした野生のインコがいて、店員さんには愛があった。って、これだけだとさほど凄くも無いと思えるでしょう。そりゃそうで、なぜなら僕がかなり控えめに書いているから。外には人一人が入れる礼拝堂があって、自由に入れるもんで、せっかくだから僕も入ってみた。これもなんとなくあんまり良くないかなと思えるので細かくは書かないけれど、そこで礼拝することで、おでこのあたりから頭頂部にかけての感覚が明らかに変わった。おそらくは良いことだろうけど、このあたりはちょっと様子見かなと思っている。家に帰ってからネットで検索してみたら、あー、なるほどなーと思える話が散見された。

若かりしころは『ムー』と『Newton』を並行して読んでいたといえば分かる方にはご理解いただけるかと思うけれど、僕は霊界通信をやりつつも、目に見えぬ物事を鵜呑みにはせずに科学的に解明したいと思っている人間。霊界通信って危険と隣り合わせだから。なので今回たまたまお連れいただいたカフェとその周辺についても、感覚としては「(良い意味で)こりゃヤベー場所だな」とは思いつつも、その真偽(エネルギーの出どころ)についてはもう少し時間をかけて判断すべきと思っている。なのでこれからも定期的に通ってみようかなと。もしかするともしかする場所なのかもしれないなと。

昨日の日記の続き(憑依の本質)

昨日の日記、やはり簡単にでも続きを書いた方がいいかもしれないと思えたので書くことにする。慣れ親しんでいない分野のことについてあれこれ書かれても理解が難しいだろうと思えるので、誰にとっても身近であろうことを例として挙げて書いてみる。オレ優しい。

誰かに誘われるとする。ご飯でも旅行でも何でもいいんだけど、誰かに誘われた際にすぐに快諾はしたものの、後になって後悔するタイプの人。普通に考えると「流されやすい人」なんて言い方になるんだろうか。そんな人を霊的な角度から見ると、憑依体質、もしくはその素質があるのかもしれないなと思える。人混みでイライラする人。単に混雑に対してイライラしている可能性が大だろうとは思うものの、これもやはり霊的な影響が無いとは言い切れない。
どういうことかと言うと、まず「憑依体質って何やねん」ってところから説明するけども、「憑依」と聞くと何か悪いものが自分の身体に入ってきて支配されてしまうようなそんなイメージを持つ人が多いだろうと思う。それも間違いでは無いんだけど、憑依にも種類があってさ、前述の「悪いものが入ってくる」「乗っ取られる」みたいなケースも確かにあるものの、実はそれはごく稀なことでね、憑依の大多数は「感応」と呼ばれるもっと簡単な現象なの。感応ってのはその字面を見れば想像できると思うけど、周囲のものに反応して感化されてしまうこと。一つ目に挙げた例で言うと、誘ってきた相手の持つワクワクだとか期待のようなエネルギーに感応して、自分も似たような心境になってしまうこと。「行く行く!」って。これ感応。二つ目の場合は、大量の人間が集うことによって増幅された「感情」というエネルギーにやられてしまうこと。これも感応。
あまりよろしくない感応の例をふたつ挙げたけど、良い方向の感応ももちろんあって、たとえば皆が同じ方向に向かってプラスのエネルギーを発するような場での感応がそれにあたる。たとえばライブ会場とか。スポーツが強いチームもそうだろうし、会社もそうだと思う。上へ上へと向かうエネルギーを持つ群衆のなかに身を置くと、自分もそれに感化されてプラスのエネルギーを持つことができる。夫婦が似てくるなんてのもそうかもしれないし、霊能力の強い人と一緒にいると自分も霊能力がアップするなんてのも同じだろうな。

憑依体質の人の身にはこういったことが頻繁に起きるから、けっこう大変だと思う。僕もそうなんだけど、言ってみれば、もはや本当の自分が分からなくなっているのかもしれないなとも思える。日頃「自分」だと思ってる感情が、実は周りから影響を受けて何色かに染まってしまったものなのかもしれないなと。僕の場合、朝起きた瞬間に胸に浮かぶ感情が自分の素直な気持ちだってことに高校生あたりのころに気づいて、それからはその「朝イチの感情」を大切にするようにしてるんだけど、要はそういうことよ。日中行動しているときの自分は本当の自分でもあるんだけど、実はちょっと違っているというね。「なんでこんなこと言っちゃったんだろう」みたいなことってあるでしょ。それよ。たぶんそれ感応なのよ。
では憑依体質の人はどうすりゃいいのかってこと、自分を取り戻すにはどうすりゃいいのかって話だけど、それが昨日の日記に書いたことなんだよね。上がっている意識を下におろしてあげればいい。下におろすことで本当の自分の感情にたどり着きやすくなる。昨日書いた「おなかに手をあてる」とか「マラソン」とか「音楽を聴く」もそうだけど、瞑想とか座禅もそうだよね。あれも意識を下におろすための方法。なので日ごろからそんなことをして意識を下におろす訓練をすればいいと思うんだけど、瞑想とか座禅についてはね、慣れていない人がそれをやると逆に憑依される可能性があるからさ、ひとりでやるのはお勧めしない。有識者のもとやってほしい。なので慣れないうちは目を開けたままできること、つまりはマラソンとか音楽なんかがいいんじゃないかなと。目を閉じちゃうとね、ちょっと危険を伴うことがあるのよ、この世界は。

長くなったから今日のところはこのあたりにするけれど、これでも全体の何分の一だろう、とにかくまだまだ説明が足りない。今日書いたことは脳波と霊能力との関係に関わる話でもあるから、本当なら脳波についても説明しないとイカン。僕ね、脳波測定器を買ってその実験をしたことがあるのよ。霊能力ってのは特別なものでは無く、誰もが当たり前に持っているものであるってことを証明したくて。誰もが当たり前に持ってるんだから、それを自らの意思で調整できたとしたら便利でしょ?そのこともさ、また気が向いたら、もしくは必要だと思ったら書くことにする。今日はこれでおしまい。

おまじないカード

今から10年ほど前、本業をしながらも空いた時間でスピリチュアルな生業をさせていただいていた頃、「五芒星のおまじないカード」なるものを開発し、ご希望の方に安価でお譲りしていた。もともとはその道の師から五芒星を利用したほにゃららを教えていただいたことから生まれたアイデアなんだけど、そもそも物質には念を入れることができるわけで、であれば念を入れた物質を五芒星で閉じてあげれば、各人の目的に応じたお守りができるんじゃなかろうかと。ってことを閃いたので、モニターを30人募集し、それぞれの目的に応じたおまじないカードを作り、お譲りした。1か月後にその目的は達成したか否かをご回答いただいたわけだけど、6割の方から事は良い方向へ進んだとの回答を得ることができた。当時は「6割?少ねぇな。」と思ったけれど、その後勉強を重ねることにより、所謂霊的現象によって得られたものの正解率は高くとも6割であるとの説を知り、「ってことは、あのカードは優秀だったってことかもしれないな。」と思うに至った。いまここ。
今は本業が忙しくなったから霊的な生業はお休みをさせていただいているけれど、おまじないカードの制作であれば空いた時間にできるので、復活させることもできなくは無いかなーと思っている。ま、全てはもろもろの環境を整えてからだけども。

波打ち際とヒーリング

波打ち際は、魂が行きかう場所だと思っている。
今から3~4年ほど前に、エプサイトさんで波打ち際で撮影をした写真をつかった作品を展示させていただいたことがあった。作品について質問をいただくことがあって、その際に前述のような説明をさせていただくと、なかには怒りだす人もいた。なぜ怒りだすのかと言えば、魂やらあの世やらそのあたりの話はどちらかと言えば「陰」であり、死を連想させるからかもしれない。僕は子供の頃から未知のものに触れる機会があったので、体験はもちろんのこと、本屋さんに行って自分で調べたり、「この人は」と思える方にご教授いただく機会にも恵まれた。それにより自分なりの死生観が確立されているので、死は怖いものだとは思わないし、あの世や魂も特別なものだったり未知のものとも思っていない。そもそものところ、なぜ人は海岸に集まるのか、山に登るのか、そのあたりのことを多角的に考察してみるといろいろと見えてくるものがあるんじゃないの?と思っている。

そういえば、舌癌での入院中、口内に溢れる粘液が突然止まったというようなことをいつかの日記に書いた。実はあれは自然に止まったのでは無くて、自分で止めた。粘液への対応が辛かったので、自分で自分に5分ほどヒーリングをしたら粘液が出なくなった。その後のことはその日の日記に書いた通り。

波打ち際のこともヒーリングのことも、僕にとっての真実なだけであって、それを皆に信じてもらいたいとか、仲間を増やしたいとか、誰かとこの経験を共有したいなんてことは思っていない。僕の身に起きたことを事実として捉えているだけであって、それ以上でも以下でも無い。

周り

先日、妻と共に新宿の地下街を歩いていた際、妻から「速い」と言われてハッとした。妻のペースに合わせてゆっくり歩いていたつもりだったから。新宿を行きかう人の流れはとても早くて、その波に合わせるように歩かねば世間様の邪魔になりかねない。そのことが頭の中にありつつも、歩みがゆっくりな妻に合わせて僕もゆっくり歩いていたつもりだった。
ペースを落として歩きながらハッとしたのは、もしかするとこれって「感応」なのかなということ。感応ってのは簡単に言うと憑依の軽い版のことで、知らず知らずのうちに外的要素からの影響を受けてしまうこと。ここで言う外的要素ってのは霊のことなので、新宿を早歩きしてしまったことを感応と言ってしまうのは違うかもしれないけれど、感覚的には同じなのかなと。無意識に近い状態で周りに合わせてしまったと。ここは僕の性格的なものもあって、普段から意識しているわけでは無いけれど、心の奥底では周りに迷惑をかけぬように気を付けながら生きている。歩く際には道の端を歩くし、電車のなかで席に座る際には姿勢を正し、足を引き、脚を閉じ、肘をなるべく内側に入れる。荷物は当然膝の上だ。ダウンコートを買おうにも、ダウンがたくさん入ったモコモコしたものでは無く、なるべく細身でかさばらないものを選ぶ。特に意識せずにそんなことをしているので、道を歩けば周りの流れに合わせようとするのは当然のこと。このことは社会においては大事なことだと思うので悪いことだとは思わないけれど、なんつーか、「度」ってものがあるのかなと思えて。日頃の言動から周りからは自己中心的な人間だと思われているかもしれないけれど、そのあたりは計算によるものが多い。自分で言うのもなんだけど、実はけっこう気を遣う性格でね。そのあたりをね、もっと開放すべきかなと思えた。「あなたは幼少期に壁を作った」と言われたことがあって、それを言われたときは何のことやらと思っていたけれど、ああ、もしかするとこのことを言われていたのかなとも思え。本当に壁を作ったかどうかは知らないけれど、作ったのであれば、齢46にして壊してもみるのも面白いかなと。

たとえば楽しいことをしたいなと思ったとき、周りの方々が楽しがっていることをやってみるのも悪くは無いけれど、自分が楽しいと思えることをやらないと、本当に楽しくは無いと思う。当たり前のことだろうけど、要は自分だからな。そのあたりのことで言えば、周りなんて見てないでいいんだと思う。自分を生きるのに、気なんて遣わなくてもいいもんな。