日記にアップしている写真

みんな忘れていると思うけど、この日記は写真に関することを書く場所だからさ、今日は正しい使い方をしてみるね。

先日妻が「日記にアップしてる写真、前(にアップした)のと同じだよね?」と言った。そうですそうです、前にアップしたのと同じ写真を使っております。ここんとこは子育てとビョーキとで写真を撮りに行く余裕が無いからさ、過去に撮ったものをPhotoshopで再現像したものをアップしている。今の気分で再現像してるから、使っている画像は同じでも、全く同じものをアップしているわけでは無いのだよ。言ってみれば「リマスター」と同じだよ。CDがさ、再発売されるでしょ、リマスターとか言って。それと同じ。昔の写真を現像しなおしてんのだよ。いや、ちょっと違うかな。違うかも。違うかもしれないけど、「あれ、リマスターだから。」ってちょっとかっこいいからさ、そう思ってくれれば是幸い。
でもね、真面目な話、昔の写真を再現像するとさ、勉強になるよ。と、ここまで書いて唐突にめんどくさくなったからどこが勉強になるのかは書かない。書くのやめた。まぁやってみなされ。さすれば理解できるであろう、皆の衆。他人に聞くより自ら体験する方がインパクト残るしな。特に写真教室のユーたちはレッツトライ。やってみましょう。
最後はルーっぽくなったけど、これにてドロン。さようなら。

だからアートは苦手

あいちトリエンナーレ2019が別の意味で話題になっている。愛知県と名古屋市がお金を出して開催している芸術祭とのことだけれど、そこには慰安婦像と呼ばれている像が置かれていたり、昭和天皇の写真が焼かれる映像が流されていたり、安倍首相と菅官房長官の口にハイヒールのヒールの部分が突っ込まれた造形物の展示がされている(いた?)そうで。あいちトリエンナーレの事務局の話によると、それら展示物はいずれも芸術作品であり、表現の自由の範囲内のものであるとのこと。ただ気になるのは、それら展示物が置かれたエリア「だけ」は、そこで撮影された写真や動画をSNS上にアップする行為は禁止されているそうで。作者の表現の自由は許すものの、それを見た人の表現の自由は許さないというスタンスなのか。であれば「あっちの人が言うのはいいけどこっちの人が言うのはダメ」というヘイトスピーチの構図と何ら変わらないように思える。要は偏っているということ。それってアートなの?
ここのところ僕の周りではいろいろなことが起きているのでお休みをしているけれど、僕はカメラを使った作品づくりをしている。僕が表現したいものをカメラを使って表現している。そもそもこの日記もその一部だしな。そしてゆくゆくは、自分でギャラリーを作って僕の仲間たちの展示に活用していただいたり、自分の作品を展示するために使いたいと思っている。ギャラリーをお借りして展示させていただくのでは無く自前でギャラリーを持ちたいと思うようになったのは、所謂「アート」の世界にいる人や「アーティスト」と名乗っている方々のことが苦手だから。そういう人たちとの接触をなるべく少なくして、気持ちのいい展示がしたいと思えたからだ。全員が全員で無いことは言うまでも無いけれど、アートだと言えば何を表現してもいいし、何を言っても許されると思っている人がいる。その方々の思想が、僕が持つ常識とは相いれない。もし僕の家族の写真が焼かれてそれを不特定多数の方々に見せつけるように映像として流されたとしたら、少なくとも嫌な気持ちになるだろう。それをアートだと言われても、表現の自由だと言われても、いかがなものかとしか思えない。疑念しか湧かない。僕が知っているアートとは、そんな程度の低いものでは無い。人の心を良くも悪くも簡単に揺さぶることができるようなテーマやモチーフを選んでいる時点で、程度のほどを感じてしまう。
アートをプロバカンダの道具にしてはならない。アートとは、人の心を豊かにするものであってほしい。

【2019年8月5日追記】
「安倍首相と菅官房長官の口にハイヒールのヒールの部分が突っ込まれた造形物の展示」はされていなかったことが確認できました。この追記にて訂正します。

トリミング

ポスターやカレンダーを筒状に丸めるとき、人はどんな方法をとるのだろう。思うに、適当に丸めてからはみ出た部分を机の上でトントンして整える人が多いのではなかろうかと。それが一番早いだろうから僕もそれでいいと思うんだけど、幼少期に「右端と左端をよく見て、ゆっくり丸めていく…。ほら、曲がってる!!」と祖父に怒られながらカレンダーの丸めかたの教育を受けた僕としては、このご時世であっても、撮影した写真のトリミングはおこなわない。撮影時に被写体の位置を確認して、四隅をじっくりと確認してからシャッターを切る。連射なんてものも使わないし、そもそも一発で決めようとしてるから撮影枚数が少ない。時代に逆行しているようにも思えるけれど、あの祖父に鍛えられたからなのか何なのか、こんな性格になってしまった。そしてその性格を気に入っている。なので僕には高性能なカメラは必要無い。視野率が100%なら充分。動く被写体なんて興味無い。というか撮れない。その場から動かずにじっとしていてくれるものでなければ撮れない。その動かずにじっとしているものがさ、時代の流れに取り残されているのに満足してる僕みたいでさ、結局作品には自分(が持っているもの)しか表れないというさ、何年か前に僕が勝手に出した結論に行く着くわけで、面白いなというか何というか、どんだけ自分が好きなんだよと思う。自分を撮り続けてるようなものだからね。