周り

先日、妻と共に新宿の地下街を歩いていた際、妻から「速い」と言われてハッとした。妻のペースに合わせてゆっくり歩いていたつもりだったから。新宿を行きかう人の流れはとても早くて、その波に合わせるように歩かねば世間様の邪魔になりかねない。そのことが頭の中にありつつも、歩みがゆっくりな妻に合わせて僕もゆっくり歩いていたつもりだった。
ペースを落として歩きながらハッとしたのは、もしかするとこれって「感応」なのかなということ。感応ってのは簡単に言うと憑依の軽い版のことで、知らず知らずのうちに外的要素からの影響を受けてしまうこと。ここで言う外的要素ってのは霊のことなので、新宿を早歩きしてしまったことを感応と言ってしまうのは違うかもしれないけれど、感覚的には同じなのかなと。無意識に近い状態で周りに合わせてしまったと。ここは僕の性格的なものもあって、普段から意識しているわけでは無いけれど、心の奥底では周りに迷惑をかけぬように気を付けながら生きている。歩く際には道の端を歩くし、電車のなかで席に座る際には姿勢を正し、足を引き、脚を閉じ、肘をなるべく内側に入れる。荷物は当然膝の上だ。ダウンコートを買おうにも、ダウンがたくさん入ったモコモコしたものでは無く、なるべく細身でかさばらないものを選ぶ。特に意識せずにそんなことをしているので、道を歩けば周りの流れに合わせようとするのは当然のこと。このことは社会においては大事なことだと思うので悪いことだとは思わないけれど、なんつーか、「度」ってものがあるのかなと思えて。日頃の言動から周りからは自己中心的な人間だと思われているかもしれないけれど、そのあたりは計算によるものが多い。自分で言うのもなんだけど、実はけっこう気を遣う性格でね。そのあたりをね、もっと開放すべきかなと思えた。「あなたは幼少期に壁を作った」と言われたことがあって、それを言われたときは何のことやらと思っていたけれど、ああ、もしかするとこのことを言われていたのかなとも思え。本当に壁を作ったかどうかは知らないけれど、作ったのであれば、齢46にして壊してもみるのも面白いかなと。

たとえば楽しいことをしたいなと思ったとき、周りの方々が楽しがっていることをやってみるのも悪くは無いけれど、自分が楽しいと思えることをやらないと、本当に楽しくは無いと思う。当たり前のことだろうけど、要は自分だからな。そのあたりのことで言えば、周りなんて見てないでいいんだと思う。自分を生きるのに、気なんて遣わなくてもいいもんな。