無になる

座禅でも何でもいいんだけど、所謂瞑想をする際には、無になることを求められる。とはいえ無になるのは至難の業で、自分というものがここに存在している以上は無理なんじゃなかろうかとさえ思っている。うろ覚えだけど、あの空海でさえ、無の境地に至ることはできなかったんじゃなかったっけか?至ったんだっけ?イマイチ覚えていないけど、若かりし頃は座禅で無に至ることができずに悩んだんだったと記憶している。そのかわり、山道を歩いているときの方が無に近づけていることに気づいたんじゃなかったかな。
話を戻すとだな、僕も長いこと無を目指しているわけだけど、今朝の瞑想中に気づいちゃったんだよね。他の人のことは知らんけど、僕にとっては「無」という言葉の持つイメージが邪魔をしていたみたいなのよ。無なんて無理だろと。自分がある限り無理だろと。無理なんだから、いくらやってもそんな境地には到達できないぞと、そんなことを心のどこか、ほとんど意識していない箇所で思ってるんだと思う。でもね、気づいちゃったのよ。俗に言う「無になる」とは、実は「我を捨てる」と言い変えても間違いでは無いものなのかもしれないなと。で、無ってのはおそらくは各人が共通に持っている深層心理の部分のことを指していて、我ってのはそこから枝分かれした個の部分のことを指すのだろうなと。深層心理やら枝分かれやらについては何十年も前から思っていたことだけど、瞑想の目的は我を捨てることかもしれないってことに気づいたのは初めてのこと。
これが正解か否かかは知らんけど、ピンと来たのは確かだから、普段の我の強さは個性ってことでいいとして、瞑想中だけは我を切り捨てられるように意識して行ければいいかなと。もちろん、防御をしたうえでの我の切り捨てね。大事なところ。

念のため書いておくけど、瞑想ってのは簡単にできるようで、実は危険を伴うものでもあるから、初心者の方は適切な指導者のもとおこなうようにしておくれやす。