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好きな写真家

好きな写真家や影響を受けた写真家を聞かれることがあるけれど、そのたびに僕の頭の中は空になる。誰の顔も浮かばないということでは無く、「好き」とか「影響」といった言葉がピンと来ないからだと思う。なんだろう、たとえばそれが「いいな」やら「すげぇな」に置き変わったとすればパッと出てくるかもしれない。めんどくせぇだろ?
写真集を買うことは滅多に無いけれど、買うときはジャケ買いをすることが多い。その方が著名か否かは関係無い。東北地方にお住まいの女性写真家さんの写真集はとても良かった。とても良かったので、勿体なくてあまり見ていない。言うなれば「箱入り娘」ならぬ「箱入り写真集」と化している。大切に、丁重に扱っている。本末転倒甚だしいとは思うものの、そうしたくなるのだから仕方が無い。そして関西方面にお住まいの女性写真家さんも良かった。こちらの女性は写真に留まらず文章もお書きになるんだけど、その文章がまたすばらしくて。この方の場合、うまく言えないので誤解してほしくは無いんだけど、今やその方そのものに興味が出てきている。とても心が綺麗な方なんだろうなと思えてね。
と、ここまで書いておきながらアレだけど、久しぶりにグルスキーの写真集でも見ようかなと。なぜなら横に置いてあるから。ではサラバイ。

写真における習作

「習作展」と銘打たれた展示を目にすることがある。そのたびに「習作って何?」と思っていた。僕が持つ知識では、習作とは練習として制作された制作物のことを指すのだけれど、それを展示して披露するという発想が僕には無いために、いまいち分からずにいた。今日になってスイッチが入ったので調べてみたところ、習作とはやはり練習として制作された制作物のことを指す言葉で、それが絵画や音楽の世界だけでは無く写真の世界においても同義として使われていることが分かった。やはり練習として制作(撮影)したものをそのまま展示してるんだね。
なんだろう、この部分って人それぞれだと思うんだけど、「習作」と言われるとあまり見る気がしなくなる。なんであなたの練習過程のものを見ないとイカンのよと思えてしまう。習作展と銘打つことで逃げているのかな?とも思えてしまう。ただ、それがもし既に活躍されている方というか僕が好意を持っている作家さんのものであれば話は別で、それを見ることで、現在の作風に至るまでの経緯というか努力と言うか苦悶というかそんなものを知ることができるだろうから、それであればアリだろうなと。
あと、生徒さんたちの作品を集めて展示することを「習作展」と銘打つこともあるみたいだけど、それってなんかちょっと失礼じゃなかろうかと。「皆さまのレベルにはまだまだ達してはおりませんが、ぜひともこれまでの成果を展示させてください。」という思いの現れなのかなとは思うけれど、それでも頑張って制作したものを展示するのだろうから、それを習作と呼んでしまうのはちょっとなぁと思える。生徒さんの作品だろうが何だろうが、それは立派な作品だと思えるのよね。
っつーことで、写真の世界における習作とはどんなものなのかは何となく理解できた。できたけど、僕の場合は今後も習作とやらを展示することは無いだろうなと思えた。人それぞれだからそれで良し。

今後の作品づくりについて

ここのところ、写真を撮る意欲、つまりは「写欲」がマイナスになるんじゃなかろうかと思えるほどに落ち込んでおり、それに伴いというかそれに先立ってというかは微妙なところではあるけれど、作品づくりについてもまるで意識が向いていなかった。自分の中身をアウトプットするために、何も作品の展示なんつーまわりくどい形を取る必要も無いだろと。それが数日前、とても唐突だったけれど、ある大切なことに気が付いた。それは、過去に僕の作品をお買い求めいただいた方々のことを置き去りにしていたこと。そのお気持ちを置き去りにしていたと思う。それに気づいたとき、彼らに対する義務ということでは無く、とても自然に「作品つくってこ。」と思えた。
作品を展示することは、楽しくもあり、嬉しくもあり、どこか恥ずかしさもあり、そして嫌な気持ちにさせられることもある。ただなんだろう、嫌な気分になったとしてもそれはお互いさまということであり、それもまた、僕の作品づくりのテーマである「目に見えぬものの可視化」にも通じるよなと。輪廻だよ輪廻。出したものは返ってくるんだよ。形になって現れるの。そして作品をご購入いただくということは、僕の一部をお渡しするということに他ならず、そこには少なからず僕の想いも込められているわけで。

ってことで、頭の中の1%にも満たないほどしか満たされていなかった「作品づくり」だけど、今日の時点では15%ほどに回復している。まだ見ぬ次の展示に向けて、徐々に気合いを入れていきたく思う次第。

見る側とつくる側

久しぶりに写真というか、アートに関する話をする。

僕がつくる作品は、ジャンル分けするのであればアート系に分類されるんだろうと思うけど、実際のところ、僕はアートに疎い。たとえば岡本太郎の作品は何のひっかかりも無くスッと心に入ってくるし好きだけど、他の大多数のものはよく分からない。友人のナカザワショーコ画伯の作品は好きだな。事務所にもデカい絵を飾らせていただいているくらい好き。音楽で言えば、母方の祖父がクラシックが好きだった。その中で育ったので、僕と、そしておそらくは姉もクラシックが好きだと思う。
岡本太郎もナカザワショーコもクラシックも、どれも感覚的なものであり、こういう理由で好きだとは言えない。でもなんだろう、アートという高尚な世界においては「なぜ好きなのか」を説明できなければならないような空気を感じてしまうところがね、「僕はアートに疎い」と思えるというか、どこか敬遠してしまうところなんだろうなと。おそらくはアートの歴史について学ぶとか、その知識を頭に入れたうえで作品を見ることで得られる気付きやら納得感というところにアートの楽しみってものがあるのかなとも思うんだけど、なんつーの?パッと見て「好き」と思えるところが好きというか、「そういう感覚って大事よね」と思えてしまうのが僕なので、それでいいと思っている。あえて左脳的な領域に踏み込むことも無いだろうと。
写真に関して言うと、僕は見る側でもありつくる側でもあるけれど、見る側としてはさきほどから述べているように「あー、これ好きだな」程度の気持ちで見ているくらいがちょうどいい。でもつくる側としては、自分がつくる作品については責任を持ちたいというか、「これ、僕です」と言えるほどのものでなければ展示の形で世に出したくは無いと思っている。なので「好き」と思えるだけでは展示したくは無く、それこそ「かれこれこういう理由で好きです」やら「こんなコンセプトのもとつくった作品です」なんて説明ができるのは最低限で、さらにそこに自分の全精力を注ぎ込んだような作品でなければ展示するに値しないと思っている。で無ければ「これ、僕です」にはならないし、そもそも見に来てくださる方々に対して申し訳無い。無駄な時間を使わせるだけになる。最近はその作業をしていないというか、それをすることに心が向かないので、展示するに至っていないということなのだ。

ということで、書き始めの頃には思ってもいなかった結びとなったけれど、ここまで書いちゃったからもうこれでいいや。本当に書きたかったことはまたそのうち書けばいいかなと。ってことで、ひとまず終わり。

森永純さん

写真家の森永純さんが亡くなったとのこと。

夜明け前の波打ち際を撮り続けていた頃、僕の撮る写真は「暗い」だとか「何だかわからない」なんてことを言われたりもしていた。内心「分かってもらおうとは思って無いし」なんてことも思っていたけれど、作品として世に出している限りはそのあたりのことも意識しないとならないものなのかな…と悩んだりもした。森永さんの作品と出会えたのはその頃で、同じ…と言ってしまうとおこがましいけれど、波を被写体としている森永さんの言葉は僕の心にスッと入ってきて、救われたというか、安心できたというか、そんな気持ちになれた。
最近では海以外を被写体とすることが多くなってきたけれど、周りからの「何だかわからない」という評価は相変わらずで、ただあの頃と違うのは、それでいいと思えているところ。お会いしたこともお話ししたことも無いけれど、森永さんの作品と出会えたことで、僕のなかの「柱」は少し強くなったと思う。

森永純さん、80歳。ご冥福をお祈りいたします。そして、ありがとうございました。