そこに愛はあるのか

サッカー日本代表の次期監督に関する噂話がチラホラと出てきている。海外のビッグネームを軸として選考は進むのかなと思うけど、サッカーど素人の僕に言わせれば、監督は日本人のなかから選んでいただきたいなと。
特に野球の世界はそうだけど、アメリカではシーズンが終わるたびに「え、これってどこのチーム?」と思えるほどに選手が入れ替わる。プロスポーツとして自分を高く評価してくれるチームへ移籍することは当然のこととして受け止められている。サッカーも同じで、たとえまだ契約が残っていようが評価してくれるチームへ移籍することは不思議なことでは無いし、その代わり、ダメならすぐに首を切られる。選手については野球ほど入れ替わりが激しいとは思わないけど、監督についてはサッカーほど入れ替わりが激しいスポーツは無いと思う。昨今の日本の大企業も似たようなもので、親会社の役員が突然自社の社長として降りてきたり、他の会社の社長だった人物が自社の社長になることもある。社長も監督も、もはやひとつの特殊技能であり、次から次へと渡り歩くものなんだろうね。

何事も「ビジネス」として捉えた場合、それが正解なんだと思う。「監督業」や「社長業」に長けた人物を採用することで、ある程度の未来は保障されるのかもしれない。ただなんつーか、そこで気にかかるのは国民性なんだよな。日本人ってそこまでシビアな人種だったかな?というところ。「そうですよ、あなたが古い人間なだけですよ。」とのことであれば申し訳ございませんでしたと言うしか無いんだけど、社長であれば社を知っている叩きあげの人物が長になった方が社員の士気も上がるというか安心につながるように思えるし、監督として世界と戦うのであれば、日本人のことも、これまでの歴史も、喜びも悔しさも分かち合える人物にお願いしたいと思えて。まだまだ未熟な日本代表だけど、世界に追いつけというのは物理的(体格)な面でも厳しいところもあるので、既に持っているもの、つまりは日本人特有のものを伸ばす方向で考えられる人物がいい気がして。会社も日本代表も「チーム(家族)」である必要があるからさ、そこで大事になってくるのって愛だと思うんだよね。「和」の精神というか、心の部分というか、まずはそこなんじゃないかって。「ダメなら首を切れ」は、日本人には合わないような気がしてさ。日本ももうサッカー後進国じゃ無いんだし、なんでもかんでも世界に追従すればいいってもんじゃ無いと思える。