過去と現在

こんなに温和で「天使のあんくん」と呼ばれているような僕でさえ、こいつだけは許せないと思える人間は過去にいた。片手で足りるほどの名前が、僕の心の中にある「こいつは地獄に行けばいいノート」に書いてある。今で言うところのデスノートだろうな。今でも思いだすと腹がたつし、あのときもっとこうしてれば良かったんじゃないかなんて多少の後悔もあったりするんだけど、もし今その人間たちと再会したとしたら、特に怒るでも無く、フツーに会話をすると思う。会話をしたうえで「やっぱりこいつは地獄に落ちればいい」と思うかもしれないけれど、「あのときのあれ、覚えてるかこのやろう。」とは思わない。さすがに自分のなかでは清算できてる部分が多いし、昔と今とは比べられないし。立場が逆(僕が迷惑をかけた方)だったらまた違うのかもしれないけれど。

なんでこんなことを書いているのかというと、過去に起きた出来事に対して現在の基準という名のモノサシをあてることで「責任者出てこい!賠償しろ!」と言っているかのようなニュースが増えたなと思えたから。なんかこう、難しいっつーか、それどうなのよと思えてね。

僕とスピリチュアル

所謂「スピリチュアル」的な話が好きな僕だけど、もともと好きだったわけでは無い。怖いのは嫌いだし、どちらかと言えば現実主義な人間だと自分では思ってるし。

小学生の頃、深夜2時前後になると毎晩のように金縛りになるようになり、夜が来るのが怖くなった。親に解決策を求めても「気のせいだ」で済まされたことで、我が身は自分で守らねばならぬと自覚。少し離れたところにある本屋まで自転車で通ってそのテの本を片っ端から読むようになったことに起因する。つまりは防御方法を学ぶために仕方無く勉強をしはじめたのだよ。

ある程度大人になってからは「気のせいかな?」と思っていたことを気にするようになった。金縛りのような分かりやすいことが起きたわけでは無いけれど、ぼんやりと頭に浮かぶことって、僕が自分で考えていることなのか、それともどこからかやってきて僕の頭の中に入ってきたものなのかのどちらなのだろうかと思うようになった。具体的に言うと、電話をしている時に頭に浮かぶ相手の部屋の間取りだとか、以前も何度か書いたけれど、相手の顔に浮かぶ「目には見えない眼鏡」だとか。気のせいだとは思うものの、やけに気にかかると言うか引っかかるようになってきたので、相手から「変なやつだな」と思われること覚悟で聞いてみたら、僕が見たり感じたりしていることはほぼ全て正解だということが分かった。間取りも当たるし子供の頃にかけていた眼鏡も当たる。これら事象には共通点があって、いずれも僕がぼんやりしているときにしか頭に浮かばないということ。自分から「理解してやろう」と思うとだめ。外れる。過去に何度か目撃した幽霊も、振り返って考えてみると、僕がぼんやりしているときや他のことに気を取られているときにしか見ていない。「あっ、お化けだ!」と思うとすぐに消えるし。ってことで、他の人はどうかは知らないけれど、僕の場合は「見たい!知りたい!」と思うとダメで、心ここにあらず的な時にだけそれら現象は起きるものだと理解した。これを「波長が合う」って言うのかな?と。それが20代の頃。

30代になり、「これって科学的に説明つくんじゃね?」と思うようになり、余暇を使って少々模索を始めてみた。結論から言うと、脳波であれば自分でも測定できるぞってことで脳波測定器を購入。そこまで細かく分析できるものでは無かったのでざっくりとした結論になるけれど、霊的な現象を察知しているときの脳波はα(アルファ)かΘ(シータ)になっているということ。つまりは所謂霊能者と呼ばれる方々は、日常から脳波がα(アルファ)かΘ(シータ)の状態を保てているのではないかというのが僕の推測。β(ベータ)じゃ無いんだね。なので意識的に脳波をα(アルファ)かΘ(シータ)まで落とすことができれば、それはつまり霊界への入口に立ちましたねということと理解。

で、ここ最近のこと。これも過去の日記に書いたけど、去年の年末あたりから、自分の信念として避けてきていたスピリチュアルの学術的解釈とでも言うべきか、そのあたりの勉強を始めている。「なんだかわからないけど不思議なもの」では無く、イギリスにて学問として確立されたスピリチュアルを学んでいる。それをするようになってから、たとえばヒーリングをするときの右手と左手の役割の違いだとか、神様なのか守護霊なのかはわからないけど、彼らから僕らへの意思の伝達方法は言語では無く静止画(ビジョン)であり、僕らがすべきことはそのビジョンの意味を解釈して言語に置き変えたうえで相手に伝えることだということなどが、僕の実体験から来るオリジナルの手法では無く、学術的に正しい方法だということを知ることができた。どうやら他の霊能者たちもそんな流れみたいで。それを知れたことで、今まで僕がやってきたことは間違っていなかったんだなと思えて安心したし、これからもこれを突き詰めて行けばいいんだなと思えて勇気が出たというか、これまでは確証の無いまま自分の経験だけを信じてやってきていたけれど、これからは迷うことも無いし、スピードアップして行くんだろうなと思えた。

っつーことで、長文になった割にはざっくりとしたことしか書けなかったけど、まぁそんなところだよ。

美女の概念

誰かから「この人美人でしょ~?」と言われたとき、これまでの僕はその女性が自分のタイプか否かを基準にして返事をしていた。なので「そうだね、美人だね。」と答えることは少なかった。でもいつからか、一般的に見て美人であろう人だと思えた際には、その問いに対して同意できるようになった。自分の信念を貫き通すこと無く、周りとの調和を優先させることができるようになった僕って偉いと言うか大人。ここまで長かった。

美味しいトンカツ屋の罠

我が家の近所にとても美味しいトンカツ屋さんがある。美味しいだけで無く、接客も気持ちいい。本来であれば毎週でも通いたいところだけど、実際には2カ月に1度ほどしか足を運んでいない。なぜか。そのお店ね、換気扇を回してくれないのよ。店に入るともう目が痛い。店を出ると尋常では無いほど油臭い自分がそこにいる。なのでそこのトンカツ屋さんに行くと、身体と服の丸洗いは当たり前として、カバンや帽子やヅラまでも全て洗濯しなければならなくなる。その部分でハードルが高いのだ。非常に美味しいトンカツを出してくれるだけにとても残念でなー。
ちなみに代々木のポパイ。そのトンカツ屋さんほどでは無いけれど、移転前は油の匂いがおまけで付いてくるようなお店だった。事務所に帰ってきてからのファブリーズは必須だった。移転してお店が新しくなった今ではカウンターに座っても全く油臭くならなくなった。なので今では気軽に行けるようになったのだ。ポパイ優秀。

ポートレート展

友人が出展しているポートレートのグループ展を見に行った。
僕の写真仲間のなかにはご存知の方もいるかと思うけど、僕はポートレートの良さが分からない人間。ポートレートの良さが分からないというか、写真だろうがドラマだろうがフィクションよりもドキュメントが好きな人間なので、必然的にポートレートもいまいち好きになれないということ。ポートレートって、ヒラヒラした服を着た美女を立たせてうまいことストロボ(フラッシュ)あてて撮っているみたいな印象でね。演出に重きを置いたものにはイマイチ面白味を見いだせない。
話を戻すと、その友人が参加しているグループ展は、ポートレートが苦手な僕でも楽しめる作品も展示されていた。コンセプトもそうだし、撮り方もそうだし、既存の「ポートレート」とは一味違う作品が散見された。そもそもそれをポートレートの範疇に含めて良いものなのかとも思えるけれど、とにかくまぁ、何らかの枠にとらわれずに表現されたものって面白いよね。思うに、表現者ってのは「個」であるべきで、どこかで見たものをなぞっているうちはオリジナリティもクソも無い。集団を形成する一個人でしか無い。その枠のなかで修練を積んだとしても上手な作品が作れるようになるだけであって、「凄い」やら「面白い」への到達は難しいのかなと。なんかすみません、エラそうなこと言って。つまりは今回のグループ展を見ることで、長いこと「写真不感症」に陥っている僕も、多少は心を刺激されたぞということ。面白いものは面白い。自由っていいよね。どこまでも羽ばたける。